前回の続きです。
中学生が回数を沢山こなしてくれたり、他の駄菓子屋もしくはゲームコーナーでパターンや技を仕入れてきてくれるので、他のゲームと同様に先輩たちのパターンを真似していったので、苦も無く進めていけた。
自分としては正に作業という感じがしていた。
パックマンよりも全然作業的ではないゲームなのだが、岩の下に敵を集める行為が私にとっては何故か「作業」という感覚があった。
そうしてたくさん集まった敵を岩で一度に潰し、爽快感というのだろうか、うまく言えないのだが、こちらの積み重ねた努力が報われる感覚が良かった。
ディグダグのキャッチコピーの「戦略的穴掘りゲーム」に偽りはなかった。
「戦略」の楽しさを味合わせてくれるゲームだったのだ。
ディグダグは1面に1回、高得点につながる岩落としをすれば、あとは適当にポンプで潰すだけで結構先の面まで楽しめる。
難易度も少しずつの上昇なので、30面ぐらいまでは大枠のパターンのコピーと適当に流していくプレイだけで遊ばせてくれたので、
そういったゲームバランスも人気があった要因だと思う。
そうしてパックマンと同様にディグダグにも鬼門となる面が確か32面で登場する。(正確な面は未確認)
この辺りからどの面も開始直後に敵が総攻撃モードに入るようになり、あっという間に自機が囲まれてしまうようになる。
囲まれる前にある程度岩で敵をまとめて潰さなくてはならないのだが、パターンを作ったり仕入れてきたりしてくれていたO君もこの辺りから1面に1人ずつ残機を削られるような形で進めていっていた。
大体みなこんな調子でグダグダになってゲームオーバーになる訳だが、ある日私は鬼門の32面で初めの岩で敵を沢山潰すことが出来る動きに成功していた。
これは全くの偶然だったが、「結構ごまかしながら出来ることもあるんだな」と思い、そこから数面分についても同じように一つ目の岩で3匹ぐらいを潰せる動きが出来るようになっていた。
3匹ぐらいの処理だと、その後の展開はやられたり、運が良ければやられない程度の内容なのだが、全くつぶせないで全てをポンプで倒そうとするよりは、はるかに生存率が高い状況となる。
そうしてその日から何とか生存率を高めるパターンを自力で開発していったため、いつしかパターンをコピらせてもらっていたO君よりも面数も点数も高くなっていた。
今現在の飲み会ではHTL-Y.N氏は散々私に、
「パターン作って最先端で突っ走るんだから、人の見てるだけじゃダメなんだよね!」
と語ってくれているが、要するにそういう事だったのだ。
当時はもちろんY,N先生のように強烈に語ったりも語られたりもする事は無かったのだが(笑)、当時も「自分でパターンを作ると専売特許というか、有利になるんだなぁ~」
というぐらいには思っていた。
果たして専売特許という熟語を知っていたかはわからないが、感覚としてはそんな感じだった。
そうして駄菓子屋エヅレにてディグダグのハイスコアは560,020点で私が嬉しいことに1番となり、2位のO君が46万点台だったので、鼻高々というか、「たぶんずっと抜かれなさそう~~」
と思っていたのだが、普通にクラスメートのM君に60万点を出されて抜かれていた。
M君は中学受験組だったので、早い頃から都心の塾に通っており、どうやらその辺りからパターンを仕入れて来たらしいっぽいのだが、真相は今も知らない。
その後M君とO君と私は駄菓子屋エヅレでゼンマイプーカがもらえるというゲーム大会を開いてくれた時に、1位O君、2位M君、3位私で3人ともゼンマイプーカをゲットしていたのだが、
その時にもらったゼンマイプーカが悲しいことに今では実家にも現在の自宅にも残っていないのが非常~~~~~~に残念なのだ。(笑)
点数等の詳細は覚えていないのだが、ドンキーコングとジャンプバグとディグダグの3ゲームのトータルスコアの上位5名にゼンマイプーカをくれるというイベントだった。
エヅレにゲームをリースしている業者のオジサンがお店に配ってくれていたのをエヅレのおばちゃんが賞品として提供してくれたのだった。
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【ゲームと自分】というテーマでここまで14回ほど書いてきて、初ゲームからやっとディグダグの時代にまで来たわけだが、
私にとってこの【エヅレ】という駄菓子屋の存在がその後の人生や人格形成にまで大きく影響を及ぼしているのは間違いがない。
私はこのエヅレという駄菓子屋を恐らくだが83年の4月辺りから徐々に行かなくなってしまうのだが、他のエヅレでの思い出は本当に1行で終わったり、
ゲームにはあまり関係のない内容が多くなってしまうので、
今回もしくはあと1回ぐらいで駄菓子屋エヅレの回想は終わらせて頂くのである。
そして今回の稿も中途半端ではあるのだが、ここで終了とさせて頂く。
ZBL-rajiame 拝